旅行・おでかけ Feed

2010年11月 7日 (日)

四国遍路道ウォーク_3 「道」 その1 阿波

今回より4回に分けて、歩いた路を辿る。

遍路は通常 1番 霊山寺から時計回りに四国の八十八ケ所を巡り、88番 大窪寺で結願となる。この全行程が下図。

Kashimir

「道」その1は阿波、すなわち徳島県の路。2008年5月から10月にかけて4回で歩いた。

第1回は2008年5月出発。

1番 霊山寺

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最初は道案内に目が行く。

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路傍の花に癒され、

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頭上の案内にも注意、ただしこれは自動車用

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花と、のどかな田園風景

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  やがて、豊かな吉野川の流れ

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潜水橋(吉野川は潜水橋、後に出てくる四万十川は沈下橋と呼ぶらしい)

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第2回も5月、最初の”遍路ころがし” として知られる 12 焼山寺へ

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私にとってはこの焼山寺越えが一番きつかったように思う。もちろん、時期、気候、自身の体調等のいろいろな要因で決まってくるものではあるが…。

焼山寺を過ぎた杖杉庵傍の衛門三郎伝説の像

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こんなに高くまで登ってきたのだと実感

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13 大日寺まで20km以上をひたすら歩く、途中の遍路小屋がとてもありがたかった。

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第3回、4回は9、10月で徳島市街を抜け、第2弾”遍路ころがし”とされる鶴林寺、太龍寺を越え、いよいよ太平洋沿いに出る。 

23 薬王寺から24 最御崎寺(室戸岬)まで約75km。

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秋真っ盛り

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日和佐城

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日和佐トンネル

歩きには、トンネルはうるさいし、空気は汚れているし、怖いしで一番の難関

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海には心が洗われる

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サーファーの姿も

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こんなやさしさに 力をもらう

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阿波の路はこれにて完

2010年10月30日 (土)

四国遍路道ウォーク_2 「積み重ね」

いきなり結論めいてしまうが、四国遍路道を歩く中で感じた大きなメッセージの一つが「積み重ね」。

おっかなびっくりから始まり、ようやくペースをつかみ始めた頃、夏から秋にかけて23番 薬王寺から24番 最御崎寺の間約75kmをひたすら歩いた。

そして、室戸岬をクリアし、26番 金剛頂寺も過ぎた海岸沿いで見たのがこの風景。

振り返れば歩いてきた室戸岬からの道程があり、

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行く手には、これから歩む道のりが見える。

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「こんなにも歩いてきたのだ」という思いと、「こうして歩いていけば必ずあの岬にたどり着ける」との確信が生まれた瞬間。

積み重ねることの大きさを、正に目の前の風景が証明していた。

2010年10月16日 (土)

四国遍路道ウォーク_1 「序」

2008年5月から2010年2月にかけて、四国の遍路道約1,150kmを14回に分け、39泊53日で歩いた。

きっかけはその前年にバスでの遍路ツアーを終えた妻の「今度は歩いてみたいな」の一言。

元々歩くのは好きで松江や倉敷等のツーデーウォークに何度か参加していたこともあり、また丁度時間的な余裕も出てきた頃で、ほぼ即決で実行が決定。

次回より、何度かに分けてテーマごとに綴っていきたい。

なお、私は遍路道は歩くが、お寺さんでは手を合わせるだけなので ” 遍路道ウォーク ” としている。

2010年10月 2日 (土)

山行_3 「富士山」

1986年の夏、いよいよ富士山を目指す。

三ヶ日の簡保センターで一泊し、明けて東名高速を一路東を目指して走っていると、考えていたよりもずっと上に突然富士山が見え、感動。

写真1(8mmフィルム→VHSヒデオ→DVDからのコピーなので見にくくてすみません)

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北側の富士吉田市方面よりスバルラインで5合目へ昼過ぎに到着。

写真2

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夜間登山になることを覚悟して15時頃に投宿するも、流石に眠れず、23時過ぎに登り始める。

足元は火山灰・火山礫で歩きにくいが、家族や周りの人たちと励まし合い、また降るような流れ星に気持ちを洗われて、ひたすら登る。

しかし、1時半頃7合目付近で、疲れがピークとなり、再度山小屋へ。

5時過ぎに起きて途中でご来光。

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ただただ登る。

写真4

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8合目で、「こんなに苦しんで登ってきたのだから頂上まで行く」とがんばってきた次男が「もう登らない」と訴えたので、「絶対にここにいるんだよ」と言って山小屋に残す。

9合目半で長男が「頭が痛いのでここで待つ」と言うので、頂上までもう一息のところではあるけれどその場に残す。

張り切って登ってきたけど、次男を残してのベースアップも影響したようだ。

子供二人を残して、心配のあまり急ぎ足で山頂へ。

写真5

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ビデオに記録を残し早々に下山。

長男をピックアップし、8合目に戻ると、次男の目元には土埃が混じった涙の跡。

「自分を置いて帰ってしまったのかと思った」、「一人で登ろうかと思ったけど、待ってると約束したのでやめた」と…。

聞いていると胸がつぶれそう。

それでも、「外国の人がいろいろ話しかけてくれて…」とも。

とても健気で愛おしかった。

下山はブルドーザーの通り道を黙々と歩く。

途中、長男と次男を交互におんぶし、私の脚もガタガタ。

写真6

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下まで降りて初めてカメラをどこかで忘れたことに気付いた。

山麓の案内所で教えてもらった旅館に入り、夕食を摂って倒れこむように眠った。

記憶に残る次男のことば「手はボロボロ、足もボロボロ」。

その後カメラは幸いにも富士吉田警察署の警察官が見つけて持って帰ってくれていたとのことで返ってきた。

今考えてもかなり壮絶な登山だった。

後から知ったのだけど、小さな子はまだ内臓の機能面より高地は無理があるのだとか、反省。

翌日は西湖畔でキャンプ、その後上高地、乗鞍と周って、自宅へ。

2010年9月18日 (土)

山行_2 「白山」

立山登山の翌年か、翌々年だったと思うが、高校時代の友人(男性)、彼のお姉さん、高校時代の友人(女性)と4人で白山に第1回目の挑戦。

ところが、とんでもない大雨で、何とか室堂までは行ったものの、そこまで…。

全身ずぶ濡れで、下着を替えただけであえなく、下山。

山での雨は上から降るだけではないこと、登山路は川となることを知った貴重な体験でもあった。

リベンジに燃えた2回目は1回目から10年ぐらいたってからだろうか、妻、二人の子供と挑戦したが、またもや大雨。

今度は室堂へも行けず、下山。幸いにも晴れ間に恵まれた麓の手取川ダムを散策して帰らざるを得なかった。

で、いよいよ3回目、2005年の夏、妻と二人で挑戦。

室堂までは順調、ところが山頂へ登りだす頃になって雲行きが怪しくなってきたかと思うとポツポツとあたるものが…。

またも雨か、「二度あることは三度ある」になってしまうのか、と一瞬ひるんだものの、せめて頂上まではと疲れた身体に鞭打って急ぎ足で何とか山頂へたどり着いた。

これがその写真

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幸いにもその後雨はあがり、室堂まで下りた後に山頂を仰ぎ見たのがこの写真

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そして、白山のシンボル、“クロユリ”

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なお、夕方になって土砂降りがあり、その頃に室堂に着いた人は大変だったようだ。

”山では早立ち”との基本は大切だね。

翌日はご来光を見ることができ、山頂周辺も散策できて大満足。年期の入ったボランティアのガイドさんの案内に感謝。

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ところで、帰途に登山靴の靴底がはがれたのには驚ろいた。

不細工だけど手元にあったビニール製の買い物袋で応急処置をしていたら、その間にもう片方もはがれたのにはもっとびっくり。

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かなり下りてきたところだったのでそれほど苦労せずに下山できたけど、山頂付近でこうなったらと考えるとゾッとした。

山ではいろいろあるものと改めて感じた次第。

2010年9月13日 (月)

山行_1 「立山」

山歩きを始めたきっかけは学生時代の夏休み。

私には初めての本格的な山で、父と私、そして私が家庭教師をしていた従甥(中学生)の3人で立山に登った。

一日目に室堂を過ぎ、山頂までもう一息の一ノ越山荘に宿泊。

二日目は暗いうちに山荘を出て、かなり急登のガレ場を45分ほど登り、雄山山頂へ。

山頂は結構寒かったような記憶がある。

そうこうするうちに、漆黒の闇の向こうが仄明るくなってきたかと思うと、はるか向こうに金色に輝く光の玉があらわれ、そしてみるみるうちにあたり一面が光で覆いつくされる。

あまりの荘厳さに圧倒され、寒さに震えていたことなぞ完全に忘れて、ひたすら見入っていた。

やがて、すっかり明るくなった中で目を凝らすと、はるか遠く、山々の向こうに一目でそれとわかる富士山が姿をのぞかせている。

そして南西に目を転ずると白山のたおやかな峰が連なっていた。

地図で馴染んでいた日本の国土を肌で感じ、自然の素晴らしさに震え、そして山に魅せられた貴重な体験だった。

以来、白山へ、富士山へと思いは募っていく。

残念ながら当時の写真は手元にないので、パソコンで何とか再現できないものかこだわってみた。

これが立山山頂からの富士山…カシミール3Dで作成

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そしてこれが、白山…これもカシミール3D

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Google Earth版も載せておくけど、あいにく季節は異なる。

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